963399 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

◆四国・巡検の旅

◆高松空港起点で四国をお遍路コ-スで回りました。
四国特有の岩石が目について、四国巡礼の旅ではなくて、
まるで地質巡検の旅でした。


鳴門海峡を望む岩♪


四国をお遍路しました。
といっても2泊3日ですが。
羽田を朝発ち、高松空港に午前中に到着。
最初についたのが鳴門公園です。
淡路島から明石海峡大橋、大鳴門橋をつないで
四国に車で来ることが出来ます。
写真は大鳴門橋を背景にした緑色岩です。
鳴門海峡では、この主柱の間に一日4回、
潮流が速くなり、渦潮が発生します。
大きいものは直径20mにもなるのだとか。
大鳴門橋の下部に渦の道といわれる遊歩道があり、
主柱の間で渦潮が見えるところまで
歩いていけるそうですが、
(なんと強化ガラスの透明床があるそうです)
残念ながら時間的に渦潮がでていなく、
高所恐怖の私は、行かずにすんで安堵。
緑色岩の色はなんとなく緑簾石っぽい。
紀州の青石のように見えます。
そういえば、ここ鳴門海峡は、中央構造線が
淡路を正面に見てすこし右にある位置。
地層は内帯端部の中世代「和泉層群」で、
この一帯は「鳴門砂岩」と呼ばれるそうです。
この橋の袂におりていき、
砂岩だらけを確認しました。
四国といえば、
中央構造線、ミカボ構造線、仏像構造線と
3つの大きな横ずれ大断層が並んでいるところで、
地質的にも有名な場所ですね。


早速ご当地ソフト
わかめソフトを調達。
なんとなく、ぬるっとした
独特の食感、おいしいです。
近くに「大塚製薬の美術館」もありましたが、
車窓で眺めて徳島へ~



四国の暴れん坊将軍♪



「坂東太郎」=利根川、「筑紫次郎」=筑後川、
そして、「四国三郎」と呼ばれる吉野川。
日本三大暴れ川ですね。
徳島市の河口近辺で橋の上の車窓から撮影です。
四国の内陸部には若くて険しい山が連なり、
ほとんど平地がありません。
太平洋の大量の湿気を受けた山から
下った水が一気に吉野川に集中するので、
暴れるのも無理からぬことです。

内田康夫の推理小説「藍色回廊殺人事件」
を読むと、暴れ川=吉野川の治水事業関連で
色々問題があることが指摘されています。
そこから犯罪がおき、名探偵浅見光彦の
冴えた推理が始まるわけです。

さて、吉野川の流れは、
途中から、ほぼ中央構造線(MTL)に沿って
東進し紀伊水道に注ぎます。
構造線上では横ずれ運動によって岩が砕けて、
しまうため、周囲よりくぼ地になる結果、
構造線に沿って川が流れることがあります。
茨城県では棚倉構造線(TTL)に沿って
久慈川などが流れています。
中央構造線では紀伊半島の
紀ノ川もそうです。
中央構造線とその下の御荷ぼ構造線の間は、
三波川変成帯という緑色変成岩の多く出る地域で、
阿波の青石と呼ばれ、庭石の最高級です。
伊予の青石、紀伊の青石、秩父の青石も
同じ緑色片岩ですが、阿波が最高と言われます。
緑色をしているのは、原岩である堆積岩が
低温高圧で変成する際に、
緑泥石、緑簾石、角閃石、藍閃石、蛇紋石、
緑閃石などの緑、青色の鉱物を生じるからです。
阿波の青石は特に藍閃石を多少含むから
冴えた色調が良いとされるのかなと勝手に想像。
最終日に見た緑色岩の絶景露頭を
後日のせますので、お楽しみに。

そういえば、徳島市を望む眉山は、
昔、藍閃石やルチル結晶の産出でも有名でした。
ということで、バスは徳島には止まらず、
一気に海岸沿いを南下し、日和佐に向かいます。
そこは四国八十八箇所霊場の一つでした。





医王山・薬王寺~四国遍路の一里塚♪


徳島を越えて、ひた走り、
阿南海岸を過ぎると、
第23番札所「医王山」薬王寺に到着。
今回、ここが唯一の
四国遍路=八十八箇所霊場です。
名前からして、強力な厄除け、
傷病平癒のにおいがする、
薬師如来をご本尊とするお寺です。
門を入ると写真のように
右に大きなわらじが鎮座。
お題目として、
「おんころころせんだりまとうぎそわか」
と唱えると、
般若心経を唱えたことになるという、
いかにも~です。
私は、仏教徒でもないのですが、
なぜか般若心経なら暗唱できます。
山の斜面にありますので、
眺めも楽しめる寺院です。

私達観光客のほかに、別の観光バスから
白装束のお遍路さんたちが降りて、
お寺に入って行きました。
そう、主役は私達ではなく、彼らです。
四国はお遍路を抜きにしては語れません。

お遍路さんの由来を紐解けば、
はるか空海の時代にさかのぼります。
すこしネット情報を圧縮引用して解説。
・・・・・
四国は古代より辺地であり、
修験者の修行の場でありました。
讃岐国に生れた空海もその一人でした。

空海が偉大な足跡を残して入定後、
後の修行僧らが空海の足跡を辿って
遍歴の旅を始めました。
これが四国遍路の原型となりました。
「同行二人=空海と共に旅する」は
ここにあります。
時代がたつにつれ、空海ゆかりの地に加え、
修験道の修行地などが加わり、
室町時代には僧侶の遍路が盛んになりました。
江戸時代初期には民衆の遍路も盛んになり、
『四国遍路道指南』という本が書かれました。
これにより今日の四国遍路が確立しました。

遍路の目的は、信仰による傷病平癒、
贖罪などでありました。
白装束は、
旅の途中いつ倒れても良いという、
チベット仏教の五体投地にも通ずる
気構えともいわれます。
そのときには杖を
卒塔婆代わりにするのだとか。
人の悩みはいつの世も同じであります。
だからご本尊は薬師如来が多いのですね。

巡礼のスタイルは「歩き遍路」が基本ですが、
一日30kmの健脚で約40日かかります。
現代では、県別のバスツア-や
自転車による遍路など、様々な形があります。
私の友人は若い頃、10回ほどに分けて、
休日を利用して、一周歩いて回ったそうです。
「歩かなきゃ、お遍路じゃない、
若くなければできない」
そう語っていました。
見せていただいたスケッチの中の、
雪をかぶったお寺が印象的でした。
また話が脱線してしまいました。
さて、次は、空海の修行の場、室戸岬へ~




空と海と♪


室戸岬といえば、台風で有名になりましたが、
空海が悟りを開いたところとしても有名。
今から1190余年前のことです。
場所は、みくろど。
車窓から若き空海の像が見えてきました。
そこで、ちょっと空海=弘法大師の解説を
ネット情報おりまぜていれておきましょう。



空海は、774年(宝亀5年)、
香川県多度津郡屏風浦(現在の善通寺市)
に生まれました。
15才で京に出て勉学に励みましたが、
一人の出家者との出会いから、
生地である四国の山や海辺に修行を求め、
厳しい修行をしました。
徳島県の第21番・大龍寺がある
岩山で百日修行をした後、
その苦行では悟りを得られず、
さいはての地、室戸岬の洞窟で
修行後に神秘体験をしたというのです。
一心に真言を唱えていたある夜明け前、
虚空蔵菩の化身である明けの明星が
にわかにその輝きを増し、
突如空海のもとに飛来してきました。
その瞬間、
空海は悟りを開いたといわれています。
これは彼自身の著に記載されている話です。
洞窟の中からみた外の風景(空と海)から
後に名を「空海」と改めたといいます。
ここがその「みくろど(御蔵洞)」です。
実際にはそれ以前に「如空」その後
「教海」とも名乗っており、
その合体形とも考えられます。
空海、宇宙的でかっこいい名前ですよね。

その後804年(延暦23年)、31歳の時に、
遣唐使として唐に渡り、長安の青龍寺にて、
密教の第一人者であった恵果(けいか)から
その極意をすべて学んで2年後に帰国しました。

ブッダの悟り、イエスの悟りもまた、
厳しい修行で得られなかった悟りを
静かな祈りによって得ていますね。
不思議な合致です。



もうすこし出ると、
空海が1200年前に見た、
空と海がはっきり見えます。
修行が足りないせいか、
悟りは手に入りませんでした。
でも、空と海のほかに、
もうひとつ見えたものがありました。






高知のさかづき♪

高知県に入りました。
次第に室戸岬も近づいてきました。
海岸を見ると、波間に黒い烏が。
いやサ-フィンですね。
波が結構荒いようです。


バスガイドさんが、
回覧してくれたのが、
この写真の「さかづき」です。
底がとがっているので、
全部飲み干さないと、
置けません。
さすがは高知県です。

私の実母の両親は、
この高知県出身です。
どちらも既に亡くなりましたが、
酒豪ではなかったと思います。
育った環境で違うのでしょうね。
私の会社の同期の方も高知県で
育ったようで、大変な酒豪です。

私はこれまでお付き合い程度には
飲めましたし、
ほぼ毎日ビ-ルを飲んでいましたが、
手術後に快復のために
断酒してから、既に4ヶ月。
すこしのビ-ルでも不快になり、
飲めない体質になってしまいました。

今夜、久しぶりの飲み会でしたが、
ウ-ロン茶では、
盛り上がりに欠けます~(^^;;;。




空と海と斑レイ岩♪



実際には、空海も、空と海のほかに、
この岩石を毎日見ていたでしょう。



ここ室戸岬は、様々な岩石があるようです。
中でも斑レイ岩の貫入岩体で有名のようです。
今回後から調べてわかりました。
この写真の岩石は斑レイ岩といいます。
白い部分は斜長石、
黒い部分は主に輝石です。
室戸岬のものです。
大きな結晶になっており、
花崗岩と同じようにきわめてユックリ
冷え固まったことがわかります。
糲(れい)は「玄米」という意味であり、
黒地に玄米のような白っぽい斑模様が
ある岩石という意味だそうです。
花崗岩の場合、
白地に黒雲母の斑模様があるのと
対照的です。

もともとは地下深くでひっそりできたものが、
膨大な時間をかけて上昇してきたんですね。
このマグマの形成年代の調査資料によれば、
約1400万年前ごろといわれ、
それはちょうど日本海拡大がほぼ終わり、
四国海盆が海嶺のような姿から口をあけて
広がり、海洋地殻を形成して沈み込んで行った
時期に一致します。おそらくこの日本を含む
一帯の地下深部にホットプル-ムが
湧き出てきたのでしょう。
フィリピン海プレ-トの形成、伊豆小笠原列島の形成、
日本海の形成、南シナ海の形成、日本火山の爆発、
そして四国海盆の形成、
いずれもこのホットプル-ムが
根本原因ではないかと思われます。



この近辺は遊歩道があり、
亜熱帯植物があります。
サボテンの花が優しく咲いていました。
リュウゼツランやアザミなども
咲いていました。
空と海だけではなくて、
岩石も花もある室戸岬でした。




真言密教のヒミツ♪

空海が著した本の中に記載されている
珠玉の言の葉のほんの一部です。
・・・・・・

 三界の狂人は狂せることを知らず
=迷いの世界に狂える人は、
 その狂っていることを知らない
 
 四生の盲者は盲なることを識らず
=真実を見抜けない人々は、
 自分が何も見えていない者
 であることがわからない


 生まれ生まれ生まれ生まれて
 生の始めに暗く
=生まれ生まれ生まれ生まれて、
 生のはじめがわからない

 死に死に死に死んで死の終りに冥し
=死に死に死に死んで、
 死のおわりをしらない
・・・・・・・
ああ、本当に私達は、
知識情報があふれ、
科学万能の世界に生きていながら、
何処から来て何処へ行くのかも、
自分が何物なのかも知らない。
だからこそ、
今生を楽しむしかないですね♪




日本三大ガッカリ名所、「はりまや橋」♪


以前長崎のオランダ坂でご紹介したのが、
日本三大ガッカリ名所。
一応、札幌の時計台、
高知市の「はりまや橋」、
沖縄県那覇市の朱礼門です。
でも朱礼門は周囲が整備され、
ガッカリどころか、すばらしい印象。
で、押しも押されもしない合格点が
この「はりまや橋」です。
これを見たいと思っていましたが、
今回バスの車窓からですが実現。
念願の三大ガッカリ名所を制覇です。

赤い欄干の狭い橋が、
どうやらそうだというのですが、
隣の花崗岩っぽい石橋も
「はりまや橋」だと言われます。
で、その先代の
赤い欄干の橋もあるのだとか。
さらに前の橋まであるらしいのです。
何度も架け替えられているんですね~。

元はといえば、
堀の両脇のお店の往来用に架けられた
小さな木橋がル-ツだそうです。
そのなんていう事のない橋を
有名にしてしてしまったのが、
罪深い「よさこい節」。
さらにそれを全国に広めたのが、
ペギ-葉山さんの
「南国土佐を後にして」です。
「はりまや橋」には
何の罪もないのです。

・・・・・・・♪
南国土佐を 後にして
都へ来てから 幾歳ぞ
思い出します 故郷の友が
門出に歌った よさこい節を


土佐の高知の ハリマヤ橋で
坊さんかんざし 買うをみた


月の浜辺で 焚火を囲み
しばしの娯楽の 一時を
わたしも自慢の 声張り上げて
歌うよ土佐の よさこい節を


みませ見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜

3番は省略。
・・・・・・・・

この1番の、坊さんかんざし買うを見た。
気になるフレ-ズですよね。
禁断のロマンスの香がしませんか。
これがはりまや橋を
有名にしたようにも感じます。

調べたら、出てきました。
・・・・
以下引用です。
----ともあれ現在の歌詞は、安政2年(1855)五台山竹林寺の脇坊、南の坊の 僧純信が、高知城下の鋳掛け屋の娘お馬を好きになり、はりまや橋のたもとの 小間物屋でかんざしを買い与えたのがいつのまにか評判になり、「おかしなことよな はりまや橋で 坊さんかんざし 買いよった ヨサコイ ヨサコイ」とよさこい節で歌われ有名になってしまった。いたたまれなくなった 二人は駆け落ちしたが捕らえられ、破戒と番所破りの罪で城下の三カ所でさらし 者にされたのち、純信は国外へ(現愛媛県川之江)、お馬は仁淀川以西に追放された。
------です。
悲しい話があったのですね。
ここまで歴史を紐解けば、
高知の「はりまや橋」、
心に残る橋になりました^^。


K-20081017-高知-夜のはりまや橋.JPG


K-20081018-高知-朝のはりまや橋.JPG




坂本竜馬の宿♪

高知県といえば坂本竜馬。
坂本竜馬といえば高知県。
一日目の宿泊地は、ホテル南水。
坂本竜馬の生家跡に建てられた
由緒あるホテルだそうです。
そのため、ホテルの前には
坂本竜馬の石像が立ち、
ホテルの中には沢山の坂本竜馬と
明治維新にかかわった人々の資料が
あふれていました。
こういうホテルも歴史に
触れることが出来て楽しいです。
K-20081017-高知-竜馬像のホテル.JPG
夕食は、もちろん、
鰹のたたきの食べ放題と皿鉢料理。
鰹をたたきを食べ過ぎて翌日
一日中おなかが不調でした。
K-20081017-高知-ホテル南水のはしおき.JPG




桂浜と五色石♪


さすが南国土佐の高知市です。
実際には、
南国市と土佐市の間に高知市があります。
朝ホテルから出ると、街には南国ム-ドの
椰子(?)の木が青空にそびえていました。
最初に向かうは桂浜。
坂本竜馬が太平洋に向かって
日本の将来を思念したとかしなかったとか。



巨大な坂本竜馬像です。


月の桂浜といわれますが、
日中の光にも映えています。


桂浜では五色石なる石が有名で、
以前いただいたこともありましたが、
これなんですね。
なんだかホ-ムセンタ-で売っている
庭の砂利石にそっくり。


K-20081018-桂浜-五色石高価.JPG
おばちゃんが売っている石の奥に、
これぞ五色石という綺麗どころが
並んでいました。
確かに綺麗です。
昔はこんな綺麗な石が
所狭しとならんでいたのでしょうか。

仁淀川が三波川帯、
秩父帯、四万十帯地域を
横断して流れ出たために、
石英脈、石灰岩の白、
緑色片岩、凝灰岩の緑、
赤色チャ-ト、赤色頁岩の赤、
灰色チャ-ト、
黒色片岩、玄武岩、泥岩の黒など
色とりどりの磨耗礫が作られた
といわれます。

かつての茨城県日立の海岸とソックリ!
前写真を載せましたが、どちらが桂浜で、
どちらが日立海岸かわからないほどです。
これで両海岸を制覇できました。
実際に歩いた場所では砂浜しか見えず、
今回は砂を採集してきましたが、
左側の場所で、現在も
モノクロが主ですが採れるようです。




四万十の清流♪

日本最後の清流=「四万十川」は、
四国西南地域を流れる
延長196Kmの一級河川で、
四国第2の河川です。


流域や海岸は、付加体という名前を
プレ-トテクトニクスにより、
世界に証明した、有名な地域です。
ここの地層は、古いものが
新しい物よりも下にある
不思議な層序をなしており謎でした。
海洋プレ-トが海溝で
大陸プレ-ト側の下にもぐりこみ、
大陸プレ-トの下側に付加される=
底付けされることによって
層序の謎が解明されました。
日本は世界がプレ-トテクトニクスを
受け入れても、まだ旧来の地向斜論が
大勢でしたが、これにより
大きく変化していきました。



橋の上から見た四万十川です。
ゆっくり流れる平和な川ですね。


投網漁
観光屋形船に乗り、
1時間ほど楽しみました。
途中、投網をしている猟師がいました。
漁は多くはなかったようです。

シバヅケ漁
シバヅケ漁とかいう方法で
うなぎをしとめた場面です。
なんだかあまりにタイミングが良くて、
やらせかな?とつい思ってしまいました。

弁当の右上にうなぎの欠片が.JPG
途中、船の中で
昼食のお弁当が出ました。
中に小さなうなぎ(かけら)が
入っていました。
ご案内によれば、
四万十川で獲れた天然うなぎだそうです。
私には中国うなぎとの区別が出来ませんが、
ありがたくいただきました。
水の色は緑がかっていて、
透明度は低いのですが、
生き物は沢山いそうでした。
そういえばゴリという名の
おいしい魚もとれるようですね。






宇和島真珠と・・・♪

四万十川を発ち、内子町へ行く途中、
宇和島でトイレ休憩。



さて宇和島といえば、宇和島真珠。
写真は宇和海に浮かぶ真珠養殖です。
宇和海は豊後水道につながり、
対岸は九州佐伯です。
御木本幸吉さん夫婦の苦労は
ここでもついに花開いたのですね。
妻は真珠の半球までできた段階で他界。
完全な真珠球を見ることは
できなかったそうです。合掌

さらに宇和島は「闘牛」でも有名。
角をワイヤ-で矯正して正面を向かせ、
互いに突き合う危険な勝負です。合掌

そういえば、
すこし前のことに成りますが、
宇和島水産高校の練習船が
アメリカの潜水艦にぶつけられ、
沈没して、多くの犠牲者を
出したことが思い出されます。合掌

バスはもう四国輪郭の
半分以上を走っています。
お遍路さんとほとんど同じコ-スです。
ただ立ち寄っていないだけです。合掌



内子の町並み♪


夕方、ようやく内子町の
歴史保存地区に到着しました。


電線を地中埋設し、
かつての姿を残そうとする努力が
垣間見えました。

webより解説を引用します。
----------------------
内子町は、江戸時代末期から明治時代にかけて木蝋の生産で栄えたが、大正に入ると、木蝋は価格の安いパラフィン蝋に取って代わられた。1950年代頃までは整髪料や化粧品などへの需要があったが、その後急速に需要が減少し、現在ではほとんど生産されていない。内子町は木蝋の衰退とともに、過疎と高齢化の問題を抱えることになった。
 1970年代半ば、内子町は過疎からの脱却と地域振興をはかるため、歴史景観を保全する運動として「町並み保存運動」を始めた。しかし時は高度成長期、開発中心の街づくりが全国各地で行われるなかで、古い町並みを残し、老朽化した家屋の建替や改築を制限する町並み保存運動は、そこで生活する住民にとって受け入れ難いものだった。
 そこで内子町は、道路に面した外観の保全に重点を置き、内側の生活スペースは住民の自由に任せるなど、生活との両立に配慮し、老朽化した家屋の修理や現代建築物の修景(建物の外観を周囲の景観にあわせて修理すること)に一定の補助を行うなどの施策を実施した。また粘り強い住民説明により町並み保存運動への理解を深め、定着させていった。
 現在、人口2万人の内子町には年間50万人を超える観光客が訪れ、地域振興策としての町並み保存運動は一定の成果を収めている。
・・・・
町並みは歴史と文化を今日に伝えるものであり、その町のアイデンティティとも言えるものだ。歴史と文化の保存・継承、観光による地域振興、そして住民が安心して生活できる街づくり。これらがうまくかみ合う町並み保存運動を、改めて考える時期に来ているようだ。
--------------

庭石や石垣に使われている石は、
皆変成岩ですね。
奈良を思い出しました。


唯一の和蝋燭の店です。
製作しているところを
見せていただきました。
はぜの実から「ろう」を
作るのだそうです。
かなり大変な作業です。



道後温泉本館♪




ようやく来ました。
憧れの道後温泉本館です。
一番上に白鷺が乗っかっています。
調べてみますと、
「白鷺伝説」と言って、
昔、足を痛めた白鷺が
岩の間から流れ出る湯に浸していたところ、
傷は癒えて、飛び立って行くのを見て、
村人が手を浸すと温かく、温泉であり、
効能を確認したという、
道後温泉の発見伝説によるものだとか。

この白鷺の下は赤い色がついていて、
独特の雰囲気を出してますね。
実は、本館は宮崎駿監督の映画
「千と千尋の神隠し」に登場する
「油屋」のモデルになったのだそうです。
言われてみれば、なるほどです。


こちら正面、
一番有名な写真ポイントですね。
私達も何枚も記念写真を撮りました。


前日はおなかがやや不調でしたが、
翌朝体調も戻り、朝の散歩をした帰りの
本館全景です。堂々としていますね。

泊まったホテルはちょうど本館の後ろに
字が見えていますね。「葛城屋」です。
他の大きなホテルも皆、
本館の後ろに位置しています。
なんせ本館が道後温泉の顔ですから。





はるか昔、神話の時代に♪


はるか昔、神話の時代、
大国主命と少彦名命が出雲の国から
伊予の国へと旅していたところ、
急病で倒れてしまいました。
大国主命は小彦名命を手のひらに載せて
道後温泉の湯に浸し温めたところ、
たちまち元気を取り戻し、
喜んだ少彦名命は
石の上で踊りだしたというのです。
「伊予国風土記より」


その石がこの写真の
「玉の石」なのだそうです。
風化した花崗岩っぽく見えます。
道後平野は中央構造線上にあり、
そのちょっと上はもう内帯で、
広島変動と呼ばれる白亜紀の
マントル対流により大量に発生した
花崗岩が出ている地域です。

道後温泉本館の北側にありまして、
当初どういういわれの石か
わからなかったのですが、
今調べてわかりました。

道後温泉は日本三古泉といわれ、
その中でも一番と言われているようです。
なんせ縄文人が知っていた
温泉なんだそうです。

近くには足湯場もあり、
朝早速体験入湯、
とっても気持ちよかったです。
熱海の駅の足湯を思い出しました。



漱石と坊っちゃんと松山♪

夏目漱石(1867-1916)は、
ご存知明治時代に活躍した
日本を代表する小説家です。
処女作「我輩は猫である」から、
「坊っちゃん」「三四郎」
「それから」」「こころ」 など、
多数の有名作品を残しています。
明治という激しい時代、
日本の自我の再構築と平行して、
私小説の世界を確立した漱石は、
自らの自我確立に苦しんでいました。
彼の小説は、その渦中の産物でした。

漱石が中学校の英語教師として
赴任した松山での生活を
元に執筆したのが代表作である
「坊っちゃん」なのですね。

さらに、松山では正岡子規との
共同生活を通じて俳句を学び、
その後高浜虚子と交流を深めるなど、
作家に転進するための基礎が、
ここ松山で作られたといえます。

道後温泉駅前の放生園にある
「坊ちゃんカラクリ時計」は、
平成6年に、道後温泉本館百周年を
記念して作られたそうです。
1時間ごとに時計がせり上がり、
「坊っちゃん」の
登場人物が現われます。
朝7時に時計の前でみていましたが
なんとも成らないので聞くと、
8時からとの事でした(^^;;;。
四国は、弘法大師、坂本竜馬、
夏目漱石など、
ヒ-ロ-好みの土地柄ですね。


こちらは夜の坊ちゃん時計です。
ちょうど駅長のような姿の方
(ボランテイア?)がおられ、
たのんで、中央にその方を入れて
記念写真を撮りました。
最近こういうボランテイアの方が多く、
上田城では足軽が、熊本城では侍が、
偕楽園では黄門様が、
記念写真に入ってくれました。






伊予かすり会館♪

元々かすりは琉球経由で
入ってきた織物技術のひとつ。
布の表面をかすったような、
模様から絣(かすり)と
いわれるように成ったようです。
具体的には、綿の糸を藍染めして、
十字や井桁、などの幾何学模様を
織りだした織物を「絣」と呼びます。

伊予絣(いよかすり)は、
愛媛県松山市で製造されている絣で、
久留米絣、備後絣とともに
日本三大絣の一つといわれています。

いわば日本のジ-ンズのような、
独特の藍色、
縦横糸の交差でできる出来る模様は、
あらかじめ糸が染められています。
著と綺麗な模様が出来るように
織られているのです。
機織を見ながら、
モンぺって凄いんだ~と、
思わず感心仕切りでした。


伊予かすりの製作中です。
縦糸と横糸がわかりますでしょうか。


ピンボケですみません。
つるの模様が立て糸+横糸で
まさに織り込められています。
織ってから染めたのとは雲泥の差ですね。
技術伝承が難しいようで、さびしいです。



汗をかきかき785段♪

バスは遂に四国を一周し、
讃岐に戻ってきました。

その讃岐の琴平町には、
金毘羅教総本部=
「こんぴらさん」があります。
ここを外すわけには行きません。
江戸時代中期に入ると既に
全国の庶民の間へと信仰は広まり、
金毘羅参りが盛んに行われました。
当時金毘羅参りはお伊勢参りに次ぐ
庶民の憧だったようです。
それは現代でも脈々と生きています。

象頭山の斜面にそれはあり、
本宮まで785段、
奥社までいくと1367段あるそうです。


前半の階段です。
まだ小汗の段階です(^^)。
江ノ島の上り道ソックリです。


鳥居をくぐると右手に並ぶ石柱は
すべて寄付者を示しています。
まだまだ先です。


さらに上に行ったところに
これみよがしに並ぶりっぱな寄付の石柱。
この金一封=1000万円だそうです。



本宮への最後の階段です。
既に大汗をかいています。
女性の厄年の段数だそうです。
色々考えるものですね。


本宮のちょうちんをご覧ください。
ここにも寄付の会社名が・・・。
ちょっとあまりにもみえみえで、
うんざりしてきました。
1千万円の寄付なんて、
どうせ企業の税金対策とPRでは~。
なんだかこんぴらさんの素朴なイメ-ジが
どんどんかき消されて、
その代わりに現世利益のシンボルが
見えてきました(^^;;;。

まあ、金毘羅って元々インドの神様で
仏教以外ですからね。
何でもアリなんでしょう。
所詮宗教ってそんなものですから、
かえって明快でよいのかも~(^^)。
確かにこんぴらさんって
明るい雰囲気があります。





こんぴらふねふね♪


琴平にある琴平宮と、金毘羅さん。
ル-ツは同じなのかな?
疑問でしたが、
ようやくわかりました。
 琴平と金毘羅の関係です。
結論から言えば、
全然別物だったのですね~。

もうひとつの疑問、
こんぴらふねふねの歌は何か?
です。

小学校の時に先生が生徒に
これを歌わせていました。
それで私も覚えているわけです。
まるでじゅもんのような、
こんぴらふねふね、
おいけにほかけて、
しゅらしゅしゅしゅ~
まわればさんしゅう
なかのごうり
ぞずさん、こんぴらだいごんげん
いちどまわれば~繰り返しですね。

こんぴらふねふねはお茶屋さん遊びだそうです。
最初は民謡のようなものだったのでしょうが、
その成れの果てです。
目から鱗というか、なんというか~
こんぴらさんらしいですね(^^)。







大歩危・小歩危の青い岩♪

いよいよ旅も終盤、
バスは、金毘羅さんから
内陸に向かってひた走ります。
途中、野球で有名になった、
さわやかイレブンの池田高校の脇を通り、
吉野川の上流を進みます。
そろそろ断崖が見えてきました。
「おおぼけ、こぼけ」=大歩危・小歩危
大またで歩いても危ない、
小またで歩いても危ない。
とにかくあぶない場所に近づいてきました。
ご存知のように小心者の私には苦手です。


小歩危の眺めです。
水量が増すともっと上まで
急な流れに覆われるのでしょう。
一皮向けば岩また岩ですね。


大歩危の中心、ドライブインに着きました。
この真下が大歩危川下りの船着場です。
周囲の斜めに傾いた地層というか、
三波川変成帯の
岩石層が見事です。


岩を眺めるために下まで急いで
降りてみました。人と岩を見比べると
その大きさがわかります。
流れに吸い込まれそうです。


庭石にしては大きすぎる
巨大な岩があります。
石英脈があちらこちらに入っていて、
石英が硬いので浮き上がっています。

このあたりには天然記念物になっている
泥質片岩があるというのですが
よくわかりませんでした。
みんな青石=緑色片岩に
見えてしまいます。

個人的には、ここで3時間くらい
放置してほしいのですが、
そうも言ってられません。
また大汗かいて上まで登りました。

その先にはもっと大汗が待っていました。




恐怖体験、かずら橋♪

大歩危から、さらに内陸、
日本三大秘境といわれる
徳島県西祖谷村の祖谷渓谷まで、
断崖絶壁の道路を通って
やってきました。

大鳴門橋の渦の道が予行練習だと
バスガイドさんが笑っていた
祖谷のかずら橋は眼の前です。
いよいよ旅の本番です(^^;;;。

長さ45m、幅2m、祖谷川の
水面からの高さは14m。
さほど高くないと言っても、
落ちればほとんど成仏です。


このかずら橋に並行している橋から
眺めていると、
かずら橋を渡る人のほとんどが
へっぴり腰で、
とってもゆっくり動いています。
なかなか前に進みません。
何かあったのかと思っていましたが、


その疑問はすぐに氷解(^^;;;。
怖くて足が前になかなか
進まない人が結構いるのです。

沢山の人が渡り出したので、
途中で渋滞になってしまい、
私は渡り出してから、
入口付近で待機していました。
真ん中で立ち往生はかないません。
内心、もどろうかな~
という気持ちが芽生えはじめました。
でもここで渡らないと、
当分しつこく言われるはず。
渋滞解消してから、
へっぴり腰といわれながらも、
気持ちの上では早足で、
毎回足元を見ては、
恐怖におののきながら、
必死の思いで、
なんとかかんとか
渡りきりました~~~。

もうすこしで足がすくむところでした。
高所恐怖の私にとっては、
かなりきつい恐怖体験でした。
恐怖の要因は、
1)足元の踏み板の間から下が丸見え。
2)人が渡ると不規則な揺れ方をする。
3)つたのあちこちがぼろぼろ。
4)横の手すりのつたが中央ほど低い。

相棒は、下を見ると怖いので、
踏み板は足で探って、
ほとんど下は見なかったとの事。
でも、下を見ないと、
木と木の間がもろに開いていて。
踏み外しそうなんです。
5cmの踏み板に15cmの隙間。
毎度14m下の川の流れが丸見え(^^;;;。
聞くところによれば、
男性の方が怖がりだそうです。
雨や雪のときはさらに怖気づきそう。


たどり着いたときには、
足ががくがくしていました。
自分のへっぴり腰は棚上げにして。
散々へっぴり腰だといわれました。
その証拠写真を撮る余裕が全然なく、
渡りきってから気がつきました。

しかたがないので、
他人様のブログからこっそりいただいた
足元写真をお見せします。
すこしは臨場感があるでしょうか。






あ~二度と行きたくない、
でも良い思い出になった
いやいやのかずら橋でした。
一方通行でよかったです。

これを500¥払って渡りに、
年間50万人が来るというのですから、
人間って本当に不思議な生き物です(^^)。




緑色片岩大露頭♪

橋をわたって、すこし左側に行くと
落差50mの「びわの滝」がありました。
その対岸に目をやると、びっくり!
緑色片岩誕生のお姿でした。


旅の最終日には大汗のかき通しでしたが、
この大パノラマを見て満足感に浸りました。
恐怖の橋をわたった甲斐があったものです。

右側に人が見えます。
スケ-ルの大きさがわかります。
地球の皮膚の荒れとしわが出ていますね。
どれも庭石には大きすぎます。
こんな状態で出来上がったんだ~と
ため息が出てきました。

四国は、砂岩、斑レイ岩、結晶片岩
チャ-ト、五色石、花崗岩など、
日本を代表する岩石のメッカでした。
大満足~♪






さぬきうどんで旅の終わり♪

さて、旅もようやく終わりです。
金毘羅さんのレストランでも
つゆとだし醤油の二種類を食べましたが、
ここ高松空港でもいただきました。
さぬきテンプラうどんです。
腰が強くて、おいしいです。
でもだし醤油+酢橘はちょっとご遠慮。
つゆの方が私にはずっとあいます^^。




このタオルに描かれたお遍路ロ-ド。
10/17-19でほとんど同じ道をバス走破。
でも寄ったのは1箇所だけ。
だから巡礼の旅とはいえません。

でも、地質巡検もどきは数箇所ありました。
(鳴門砂岩、室戸斑レイ岩、四万十川チャ-ト、
桂浜五色砂、内子変成岩、道後本館花崗岩玉石、
大歩危、いやの結晶片岩などなど)
だから四国巡検の旅とはいえますね。

ついでに父方のル-ツ徳島県と、
母方のル-ツ高知県に行きましたので、
私の血のふるさと旅行ともいえるかも。

またいつか行ってみたいです。


















© Rakuten Group, Inc.